海底百貨店アトランティス

西暦二四四〇年。

海面上昇によって、多くの都市が海へ沈んだ。

東京。 ニューヨーク。 ロンドン。

人類は巨大な浮遊都市を建設し、海の上で暮らすようになった。

だが一部の人々は、逆に海の底へ進出した。

深海は静かで、嵐も届かない。 宇宙より建設コストも安かった。

そして太平洋の底には、世界最大の海底都市が存在していた。

その名は「ネレイス市」。

青い人工太陽に照らされた、ガラスドームの街。

その中心にあるのが、海底百貨店アトランティスだった。

巨大な吹き抜け。 空中エレベーター。 クラゲ型照明。

高級ブランドから古本屋まで、何でも揃う。

だが、この百貨店には妙な噂があった。

“閉店後にだけ現れる売り場がある”

新人販売員の三崎ナギは、その噂を笑い飛ばしていた。

二十三歳。 靴売り場担当。

現実主義者で、幽霊話は嫌いだった。

「そんなの、ただの都市伝説ですよ」

先輩の佐伯が笑う。

「みんな最初はそう言うんだよ」

「閉店後の百貨店なんて、防犯ドローンしかいないでしょう」

「じゃあ、今夜残業してみる?」

ナギは軽い気持ちで引き受けた。

その夜。

午後十一時。

閉店アナウンスが流れる。

客たちは帰り、照明が半分落ちた。

巨大百貨店は急に静かになる。

ナギは靴売り場で在庫整理をしていた。

すると。

チーン。

どこかでエレベーター音がした。

「まだ誰かいるのかな」

警備員かもしれない。

だが次の瞬間。

館内放送が流れた。

『ようこそ、深夜売り場へ』

ナギは顔を上げた。

そんな放送、聞いたことがない。

しかも声が妙だった。

古いレコードみたいに少しノイズが混じっている。

床が微かに震えた。

すると、閉じていたはずの奥の通路に明かりが灯る。

そこには見たことのないエスカレーターが現れていた。

「……え?」

昼間には存在しなかった。

ナギは立ち尽くした。

帰るべきだった。

だが人間の好奇心は、時々、防犯マニュアルに勝つ。

ナギはエスカレーターへ近づいた。

案内板がある。

『深夜売り場 B13階』

アトランティスにB13階など存在しない。

ナギはスマート端末を取り出した。

圏外。

海底都市で圏外になることはまずない。

「……帰ろうかな」

そう思った瞬間。

背後でエレベーターが閉じた。

完全に一人になった。

静寂。

ナギは観念してエスカレーターへ乗った。

下へ。

さらに下へ。

長い。

異様に長い。

普通の百貨店ではありえない深さだ。

やがて、広大なフロアが現れた。

そこには大勢の客がいた。

笑い声。 音楽。 店員の呼び込み。

普通の百貨店の光景。

ただし全員、服装が古かった。

二十世紀風スーツ。 着物。 軍服。

年代がバラバラだ。

「いらっしゃいませ」

突然、女性店員が声をかけてきた。

黒い制服。 古風なデザイン。

胸の名札にはこう書かれていた。

『案内係 ミズホ』

「ここ、どこですか?」

ミズホはにこやかに答えた。

「海底百貨店アトランティス、深夜売り場です」

「いや、そんな階は存在しません」

「昼間はね」

ミズホは当然のように言った。

「ここは、“帰れなかった人たち”の売り場なんです」

ナギは眉をひそめた。

「帰れなかった?」

「時代へ」

ミズホは静かに言った。

ナギの背筋が冷えた。

「ここにはね、時間からこぼれ落ちた人たちが来るんです」

「時間……?」

「戦争で消息不明になった兵士。沈没船の乗客。事故で行方不明になった子ども」

ミズホは売り場を見渡した。

「みんな、元の時代へ帰れなくなった」

ナギは周囲を見た。

たしかに奇妙だった。

客たちは楽しそうに買い物をしている。

だが誰も出口へ向かわない。

「ここ、何なんですか……」

「待合室みたいなものかな」

ミズホは笑った。

「次の時代へ行くまでの」

その時。

館内放送が流れた。

『零時発、未来行きのお客様は中央ゲートへお集まりください』

客たちがゆっくり歩き始める。

ナギは呆然とした。

「未来行き?」

「ええ」

ミズホはうなずいた。

「時々、未来へ流れ着く人がいるの。あなたみたいに」

「私?」

「気づいてないの?」

ミズホは少し驚いた顔をした。

「あなた、本当はこの時代の人じゃない」

ナギは笑った。

「いやいや、海底都市生まれですけど」

「違う」

ミズホは静かに言った。

「あなたの記憶、作られてる」

空気が凍った。

「……は?」

「あなた、百年前に海で死にかけたの」

ナギの頭が真っ白になる。

「そんなわけ……」

「海難事故。救助時、脳損傷。未来医療で治療された」

ミズホは続けた。

「でも記憶が壊れてた。だから新しい記憶を埋め込まれた」

ナギは後退した。

ありえない。

だが。

ふと気づいた。

幼少期の記憶が曖昧だ。

学校。 友達。 家族。

全部ぼんやりしている。

「嘘……」

「ここへ来る人はみんな、時間に迷った人」

ミズホは優しく言った。

「あなたも、その一人」

その時。

遠くでベルが鳴った。

中央ゲートが開く。

その向こうには、海が広がっていた。

暗い深海。

だが中央に、光る列車のようなものが浮かんでいる。

透明な魚の群れみたいだった。

「何、あれ……」

「時間潮流船」

ミズホは答えた。

「時間の流れに乗る乗り物」

客たちが次々と乗り込んでいく。

兵士。 子ども。 老婦人。

みんな静かだった。

ナギは尋ねた。

「どこへ行くの?」

「それぞれの未来」

ミズホは少し笑った。

「時間って、海みたいなものだから」

ナギは海を見た。

深くて。 暗くて。 どこへ続くか分からない。

すると突然、頭痛が走った。

知らない景色が浮かぶ。

大雨。 沈む船。

幼い自分。

「お母さん!」

叫び声。 冷たい海。

ナギは膝をついた。

思い出した。

自分は二十一世紀の人間だ。

百年前。 客船事故で海へ投げ出された。

そして未来へ流れ着いた。

「……私……」

涙がこぼれた。

ミズホは静かにハンカチを差し出す。

「思い出した?」

ナギはうなずいた。

「でも安心して。あなたは生きてる」

「……あなたは?」

ミズホは少し困った顔をした。

「私は、たぶん店員」

「たぶん?」

「長くここにいるとね、自分が何者だったか忘れちゃうの」

ナギは胸が痛くなった。

ミズホは笑った。

「でも悪くないよ。毎晩、いろんな時代の人が来るから退屈しないし」

館内放送が響く。

『最終便、まもなく出発します』

ミズホが言った。

「行きな」

「え?」

「あなたには未来がある」

ナギは立ち尽くした。

「一緒に来ないの?」

ミズホは少しだけ寂しそうに笑った。

「私は店番だから」

ナギは言葉を失った。

深夜売り場。

時間に迷った人たちの待合室。

そして彼女は、その案内係。

ナギは深く頭を下げた。

「ありがとう」

ミズホは笑顔で手を振った。

ナギは時間潮流船へ乗り込んだ。

光が広がる。

海が揺れる。

そして次の瞬間。

ナギは、朝のアトランティス百貨店に立っていた。

開店準備の音。 店員たちの声。

まるで何事もなかったみたいだ。

「……夢?」

その時。

制服のポケットから、小さな紙片が落ちた。

『深夜売り場案内係募集中』

裏には、小さくこう書かれていた。

『退屈しない仕事です』